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【本】森田真円 / ひらがな真宗 (4)



(3)の続きです。


「むずかしい話 * 聴聞」より

わかりやすかったとは、自分の心に落ち着いた、納得できたということでしょうか? けれどもちょっと意地悪く見れば、
 「自分にもそんな経験や思いがあるぞ。なるほどなるほど」
と頷く部分があったらわかりやすいと感じただけで、仏教の大切なところに頷いたのかどうかは別なのではないでしょうか。
 では反対に、むずかしいと感じるのはなぜでしょうか? 確かに仏教用語はむずかしいものです。難解な用語を並べ立てて話をされたら、嫌気がさすことも事実です。けれども本当は、用語のむずかしさより、お浄土、阿弥陀さま、ご本願という目に見えない世界やはたらきが自分の身心に落ち着かないから、むずかしいと感じるのではないでしょうか?
 自分の経験や判断で納得できたからわかりやすい話、納得できないとむずかしい話、となれば、教えを聞くことにはなっていないでしょう。
(中略)
 そもそも仏法の教えとは、私たちの経験や判断を超えた世界を説くものです。だからこそ、それまでの自分の行き方や考え方を少なからず方向転換させられるのです。それが教えに出遇うということであります。
 納得したところのみを取り、納得できないところを捨てるような、自分のものさしで教えを取捨する聴聞では、いつまで経っても教えに出遇えないのではないでしょうか。
 なぜ納得できないかを自分に問い、納得できないのは自分のほうが間違っているのではないかと問い続けることが大切に思います。教えを取捨するのではなく、自分を教えに合わすことが聴聞の姿勢と言えるでしょう。

「自分を信じる? * 疑心」より

誰かを信じるとは、突き詰めれば自分を信じることにつながります。その人と自分との付き合いの中で、相手が自分に対して振舞った態度をどう思って受けとめたか。その思いを信じて相手を信じているのですから、結局は自分の思いを信じていることになります。
(中略)
 そもそも、本当に「自分を信じきる」とは、生半可なことではないように思います。例えば、自己新記録を目指す一流のスポーツ選手が、楽をしたいという自分と向き合ってそれを律し、鍛錬に鍛錬を重ね、切羽詰った状況下で、
 「もうこれ以上はだめだ」
と思う自分に向かって、
 「自分を信じるしかない」
と言ってこそ意味があるのではないでしょうか。それは、ある意味では命がけの言葉であります。いつの間にか結果を求める気持ちが消え、ただ全力を出すしかないという状況で出てくる言葉に違いありません。本来の自分を信じて、結果を求める自分を捨てるということになってくるでしょう。だからこそ、極限の状況を超えたスポーツ選手がすばらしい結果を得たとき、彼らの多くは、周囲の人びとへの感謝の言葉を述べて、「神の力による」とか「たまたまでした」というのではないでしょうか。

「疑いの旅 * 信罪福心(しんざいふくしん)」より

これを行ったから良い結果が出て、これは悪いことになるというのは、あてにならないもう一人の自分を規準にして決断したことにほかならず、果たして正しいかどうかはよくわかりません。ただ「しかたがなかった」と無理にでも納得しようとするだけかもしれません。
 私たちが、このあてにならない自分を基準にして、仏さまを信じようとする限り、仏さまはわたしにとって絶対的な存在にはなり得ません。仏さまを信じていると判断したもう一人の自分に対し、本当に信じているかどうかと、さらなるもう一人の自分がチェックすることになり、際限ない「疑いの旅」が始まります。
 「信じているに違いない」
と無理に納得しようとしても、この旅は終わりません。
 しかも、自分を拠りどころにして信じている仏さまは、自分が想定した仏さまでしかなく、仏さまとはいえないでしょう。この自分と際限のないもう一人の自分との関係が突破された出遇いこそが仏さまとの出遇いです。

「おてんとさまの光 * 他力の信心」より

 自分の心を拠りどころにして、仏さまを信じようとする限り、際限のない「疑いの旅」は終わらないと前項で述べました。
 私たちは、「われにまかせよ。必ず救う」という仏さまの願いを聞こうとせず、「仏を信じている心が自分にあるか」と自分の心を見ようとします。それは、仏さまの方を見ているようで、実は自分の方しか見ていません。
(中略)

  わたしの信心雪だるま
  オテントさま出りゃ
  すぐとける

という木村無相先生の詩がありますが、阿弥陀さまの光に照らされたなら、私がつくった信心は、聞けば聞くほど残るところもなく溶けてしまうという意味でしょう。

「間違いない」は私の心境にあるのではなく、阿弥陀さまにあるのです。

「何もない慶び * 二種深信(にしゅじんしん)」より

阿弥陀さまは、私が何かになるのを待っておられる訳ではありません。阿弥陀さまの救いは、「たった今、ここで」のことです。過去に有り難い気持ちになって、「ああいう気持ちになったのだから、もう大丈夫だ」と自分の心をたよりにしていても役に立ちません。また、将来に何らかの信心を得た状態になることを想定して「今はダメだ」と思うのなら、「たった今、ここで」の阿弥陀さまの救いに目覚められないでしょう。
 では、私の心は変わらないのか? と質問したくなります。変わらないのであれば、信心を得た甲斐がないのではと思う人もあるでしょう。でも、この「変わる」には、当然前よりも良くなるということが含まれています。そういう意味では、まったく変わりません。
(中略)
 自分が何かを信じ、自分で何かを積み重ねて結果を得たという考えが打ち消されてこそ、阿弥陀さまのお慈悲の世界です。










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